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常に大人である必要はありません

2013年08月23日 18:55

HP記事では、うるさいくらいに(汗笑)、
「エスに負けずに大人になりましょう」と書きましたが、
今回はそれについての補足です。^^ゞ


まず基本的に、私たちの心、精神の『素の姿』はエスです。
これは生涯、どんなに努力しても変わることはありません。

つまりエスは産まれたままの心、心の原形であり、
本当のあなた自身、あなたの元の姿なのです。

私たちは、そんなエスという幼い心を持ちながら、
その時々の必要に応じて自我が『社会的な行動』をとり、
生活を営んでいる・・と考えて下さい。

たとえば、家庭の中では良い夫であったり、良い妻であったり、
社会の中では、真面目な会社員であったり・・と、
その時々に応じて『その役割を演じている』わけです。
※その時々に仮面を取り換える、と考えても可です。

そういう意味で言えば『大人になる』や『人格者』と呼ばれる人は、
『バランス良く役割を演じられる人』なのかも知れません。


さて、ここからが本題です。

クライアントさんや、ホームページ記事を読んで下さった方から、
よくご質問を頂くのは、

「頑張ってみましたが、どうしても大人になりきれません。
自分はやっぱりダメな人間なのでしょうか・・」

です。

答えから申し上げますと、「そんなことはありません」
大人になりきれないのは、ある意味「当然なこと」なのです。

その理由として・・

冒頭に書きましたように、私たちの心の『素の姿』はエスで、
それはどんなに頑張ろうとも、変えることはできません。

そしてエスとは、理知とは無縁な、とて原始的で幼稚な精神です。

私たちはそんな赤ん坊のようなエスに、その時必要な仮面を無理やりつけて、
社会生活を『取り繕っている』に過ぎないのです。

ですから当然、良い妻を演じたあと、ホッとしたときに
ワガママな自分が出てしまったとしても、それは不思議ではありません。

真面目な会社員を演じたあとに、繁華街で一杯飲んで、
ちょっとハメを外したとしても、それは「あり得る話」です。
※もちろん程度の問題はありますが。(笑)

むしろ、四六時中、正座して『いい人』を演じるなんてことは、
無理というより不可能なことなのです。(^^;

なので、こう考えてみては如何でしょう。

怠けちゃえ、や、テキトーでいいよ、というエスの要求に負けず、
「頑張るべきときに頑張れる人を目指してみよう」
「今日の自分は大人だったな・・と思える日を少しずつ増やしてみよう」


昨今『自分にご褒美』という話をよく耳にしますので、
この言葉を使って、
「今日はとても頑張れた、だからこれをご褒美に」と、
ケーキを買ったり、晩酌を多めにしたり。(*^^*)

逆に「頑張れなかったなぁ」と思ったときは、
「明日こそご褒美を勝ち取るぞ」くらいな感じて。(^^)v


ともあれ、私たちの心の原形であるエスは、
一筋縄ではいかない相手、とても手の焼ける相手ですから、
少しずつ頑張り続けるしかないのです。

しかし、頑張り続ける、その継続によって、
自我が(ある程度)エスをコントロールできるようになれば、
あなたの生活も、はるかに向上しているはずです。


最後に・・繰り返しになりますが、

もちろん、四六時中、大人である必要はありませんし、
それは不可能ですから(成れなくても)安心して下さい。
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続・ストレス耐性

2012年12月19日 21:55

いつの間にか4年ぶりの更新になってしまいましたが、(^^;
今回は、前回のストレス耐性の続編です。

前回、現代人はストレスに耐える力が弱くなってしまった、
それは、乳幼児期に適度な我慢を学習してこなかったからである・・
という話をさせて頂きました。
つまり、過保護もほどほどに・・ということですね。

今回は、ある意味その真逆で、
乳幼児期には、もっとかまってあげてください。
そうすれば、大人になってストレスに耐える力が出せるようになります。

という話をさせて頂こうと思います。

あれあれ・・かまうなと言ってみたり、もっとかまってあげてと言ってみたり、
「いったいどっちなの? どーすりゃいいの?」
ですよね?(^^;(汗笑)

しかし、あらかじめ申し上げておきますが、
「過保護にする」ことと、「かまってあけること」はまったく別のことです。

過保護というのは、「かまい過ぎ」、「やり過ぎ」てしまうことで、
どちらかと言うと、相手のためというより、自分が気になるからやる、
不安だからやる・・という自分本位な意味合いが強く、
悪く言えば、過干渉で「有難迷惑」な行為のことです。

そして「かまってあげる」ことは、相手(ここでは乳幼児)に、
深い愛情と関心をもって「見守ってあげる」ことを言います。

もちろん過保護にも愛情的要素はあるのですが、
愛するあまりに相手を壊してしまう場合がある・・ことの警鐘も含めて、
ここでは、
過保護=相手の為にならない自分本位な干渉
かまってあげる=愛情ある見守り

という定義で話を進めたいと思います。


さて、前置きが長くなりましたが、
では、なぜ、そうした「かまってあげる」行為がストレス耐性に必要なのかです。

結論から申し上げれば、
人間の0歳から3歳くらいまでの乳幼児期は、とても無力なので、
そんな彼らにとって「守られている」という安心感と、
守ってくれる人の存在は、絶対不可欠なのです。

その不可欠さは、大人が想像する以上に強大で、
常に不安にさらされている彼らにとっては、
空気と同じ「これが無くては生きてはいげい」くらい、
欠かすことのできないものなのです。

そして、乳幼児である子どもは、
初めての経験ばかりの不安の中で、「かまってくれる人」の存在を感じながら、
そうした安心感に包まれながら、
冒険をし、時にはすぐに満たされないストレスを学習しながら、
成長していくわけです。

子どもがすぐに親の顔を見るのは、
親のご機嫌をうかがっていると言うよりは、、それもあるかも知れませんが(苦笑)、
自分を見守ってくれている人の存在を、確認している
と思ってあげたほうが良いかも知れません。

繰り返しになりますが、
それくらい子どもは、常に不安の中で暮らしているわけです。


そして、きちんと見守られて育つ子どもは、
安心感の中で、いろいろなことを経験し、時には我慢をし、
さまざまなことに対する対処法を学習していくことができます。

ここで何が大事かと言えば、自分を信じることの、自信が身に着くことです。

たとえば、欲しいものがあっても「すぐに自分のものにはならない」ことを覚え、
「大人になったね」と褒められることで、
自分は日々成長しているのだという自負心と、その確信が持てるようになります。

そうしたことを重ねることによって、揺るがない心、自分を信じる心が芽生え、
ストレスにも耐えられる人格が育つわけです。

その間、親ができることは、子どもが感じるストレスを共有し支えてあげることです。
親にしてみても、子どもが何かを欲しそうな時には、
子どもの悲しそうな顔を見るのが忍びないあまりに、
すぐに渡して(買って)あげてしまうことが少なくありません。

そりゃ、子どもが悲しむ顔より、笑っている顔のほうが良いですからね。(苦笑)

しかしそのときに、グッと我慢して、
親も耐える、子どもも耐える・・が我慢・ストレスの共有です。

そうすることで、子どもは親との一体感を感じるとともに、さらに信頼感を強め、
さらに、さまざまな冒険(体験)を積むことができるようになります。

※ただし、上記のことは子どもの年齢(月齢)や、求めているものなどの状況が
きちんと加味されたものであることが前提です。

産まれたばかりの乳児が泣くのをみて「お腹すいたの?でも我慢なさいね」は、
あまりにも酷ですからね。(苦笑)
あくまでも段階を追って、我慢を覚えてもらってください。(^^;

そして、もう言わずもがなですが、
子どもが体験することより先に、転ばぬ先の杖で、
親がなんでもしてあげてしまう過保護が、
無意味である以上に、子どもからさまざまなものを奪ってしまう害であることも
お分かり頂けたと思います。

どうか、お子さんのことを真に想った見守りをしてあげて下さい。
きっとお子さんはそれに応えて、芯の強い、ストレスに強い大人になってくれるはずです。


さて、ここからは余談ですが、
前回の記事から4年近く経ってみて、
ストレス耐性の弱い新成人たちが、さらに増えているように思います。
「それは、世の中がこうだから仕方がない」
と言ってしまえば「それまで」ですが、(^^;
その『世の中』を形成しているのは、ほかでもない、私たち一人ひとりであり、
ストレス耐性の弱い子を産出している私たち大人なのです。

その要因のひとつを簡単に述べるなら、
子育てとは名ばかりで、本当は子育てをしていない親たちが如何に多くなったか、
ということではないかと思います。

子育てをしていないという言葉が悪いのであれば、
子育てをしているつもりの、子どもをちゃんと見て(かまって)あげていない親が多くなった、
と言い換えても構いません。

とにかく、親自身が自分のことで精いっぱいなのか、
はたまた、まだまだ遊びたいお年頃なのか、(汗笑)

食事や、幼稚園などの送り迎えはしているものの、
ケータイや何かに夢中で、
ちゃんと子どもとアイコンタクトすらとれていないのではないか、
と思うケースが増えています。

そのことを指摘すると、あるお母さんは、
「わたしか子どもの犠牲になれと言うのですか?」
と切り返してきたのですが、

そうではなく(^^;もちろん、犠牲とかそういうことではなく、

せっかくお子さんを授かったわけですし、
お子さんと親密に付き合える時間(年月)など、思うより長くはないのですから、
もっとお互いにベタベタしてみてもいいんじゃないか、
という提案なのです。

もちろん、子育ての主役は親ではなく、あくまでも子どもたちですから、
時間や労力を使ってあげることも多いかも知れませんが、
それこそ真剣に子どもと付き合ってみたら、親自身も満足のいく、
かけがえのない時間を過ごせるはずです。

斯くいう僕などは、あまり「かまってあげられなかった親」で、
いまでは深く後悔しています。(^^;


できれば、親を含めた大人たちが、子どもたちへの関心をさらに深め、
地域ぐるみの子育てをして、社会に送り出してあげる
という、昔ながらの循環が復活できれば、
さらにストレスにでも何にでも強い人たちが増えて、
社会全体が豊かになれるのですけどね。^^ゞ

固着の誘惑

2008年11月08日 23:45

教職員による少年少女に対する買春や、

わいせつ行為の記事が、

最近また目立つようになりましたね。


「教員なのになぜ?」

という怒りの声も多く聞かれますが、

誤解を恐れずにいえば、

「教員だから」

そうした事をしてしまう(可能性も大きい)のかも知れません。



その理由は単純です。

学校の先生になろう、と思うのは、

少なからず、子どもが好きだったり、

子どもに興味があるから、ですよね。


たぶん、「子どもが嫌いで嫌いで仕方ない」

と思っている人は、教職の道など考えも

つかないはずです。


ならば、子供に対する「好き」という気持ちや

「興味がある」という『こだわり(固着)』が、

教職以外の人たちよりも多いわけですから、

そのこだわりが『性欲』という、

よからぬ方向に脱線してしまう可能性(確率)だって

(ふつうの人たちよりも)高くなることも

「当然考えられる」という理屈です。



似たような話で、

よく、放火犯を捕まえてみたら消防団員だった

という事件もありますよね。

それも今の理屈と同じで、その人は良くも悪くも

『火』というものに興味関心があるから、

消防の道を選んだ、という云い方ができるはずです。


だから「火事」というと「消さなければ」

という使命感とは別に、

異常な興奮(快感)を感じてしまう人がいても

おかしくはないですし、

もしそこから使命感が欠落してしまえば、

無性に『火(火事)だけ』が見たくなって、

自分で火をつけてしまうことがあっても

不思議はないですよね。


放火犯は火災現場に必ず現れるといいますが、

あれは犯人が自分だとバレはしないかと

心配で見に来ているわけではなく、

単純に火を見たいから・・・なんですよね。



と、ここまで書いてきて、「誤解を恐れず」とは

云いながらも、ずいぶんなことを書いてしまって

いるかも知れません。(^^:


もちろん、教職も人も、消防の人も、

すべての人が「そう」と申し上げているわけでは

ありません。

おそらく1万人いれば9千9百9十9人の

みなさんは、本当に子どもたちを愛し、

教職に励まれているはずですし、

強い使命感を感じながら消防に携わって

くださっていると思います。


でも、それだけに、関係者による

こうした事件はとても残念ですし、

起こって欲しくないですよね。



ではなぜ、

そうした『こだわりの固着』の誘惑に負けて、

わいせつ行為や、放火といった、よからぬ方向へ

向ってしまうのでしょうか。


それはやはり、自我の弱さなのだと思います。

つまり、自我が順調に育っていないから、

ストレスなどに負けてしまう、

それを発散するために誘惑に乗ってしまうわけです。



これはある意味、教職や消防だけではなく、

どんなことにも、どんな人にも云えることだと思います。

好きこそモノの上手なれ・・・ではありませんが、

自分の好きなことや、得意な事というのは、

ひとつ間違えば犯罪に結びつく危険性がある。

紙一重なんだ、と考えておいたほうがいいと思います。


なぜなら、誰も自分の不得意分野で犯罪する人は

いませんからね。

たとえば、口べたな人は、オレオレ詐欺など

やらんでしょうし。。



ならば、自分が「よからぬ道」に行かずにすむ

方法はないものか・・・ですよね。

その一番は、やはりトレスに強い心を持つ、

自我の強化に尽きるだろうと思いますが、

とにかくその為にも、自分のことにキチンとした

自覚を持つことだと思います。


たとえば、

自分は子どもが好きなんだ。

だから教員になった。

と、自分自身のことや、自分の立場を

しっかりと自覚できていれば、少なくとも

「自分の学校の生徒でなければイイか」

と買春や、わいせつ行為には及ばないはずです。


つまり、悪いことに走ってしまう人は、

そうしたことに自覚がなく、

ただ何となく過ごしてしまっているから、

「自分は教職者である」というアイディンティティ

にも確信(自信)や誇りが持てず、

流されるまま誘惑に負けてしまうのだと思います。

あるいは、踏み留まろうとしても、

最後の踏ん張りがきかずに負けてしまう。


もちろんそれは、固着が持つエネルギーが

それだけ強烈強大である、という証しであり、

人間なら誰でも道を踏み外す可能性があることを

示していますが、だからこそ、

流されず、それに打ち勝つだけのエネルギーを

自我に持たせておくことが、『大人』としての

責任じゃないかと思います。


長くなりました。

    自戒を込めて。


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